百光社参
「日光道中」は東照宮の参道として整備された。ただ、「伊勢参りの道」なとど違うのは日光山への「信仰の道」であるばかりでなく、幕府の威光を支える「政治の道」であったことであろう。
「日光道中」の一大イベントは何と言っても、将軍杜参の大行列である。徳川幕府の治下、十五代二百八十年間に行われた将軍の東照宮社参は、合計十九回とされている。幕府勢威の消長を物語るように、殆ど前半、家綱あたりまでに集中している。これには、莫大な人員と財力が必要で、時には幕府の財政を圧迫する程のものであった。出来るだけ簡素な行事にすることに留意したものの、沿道民衆の負担は、容易ではなかった。なかんずく、八代将軍吉宗の社参はその最たるものであった、、
動員された人員二十五万人、これに従う親藩大大名も二十数家に及び、参加した大名だけでも大変な数にのぼり、馬匹、人足を加えると優に数十万人に達したという、、
先頭の部隊が栗橋の利根川の渡しにかかっているのに、後続の部隊は、まだ江戸市中にあって順番を待っていたとある。
武士が軍人である以上、大名、旗本等の行列は即ち行軍である、、まして、「将軍社参」の行列の威厳はとなると、斯くの如くすさまじいものであった。作家の司馬遼太郎氏は、これは東照宮社参を名目にした幕府の軍事演習であり、このことは、これだけの規模で日光に到着しても、たった一泊で直ちに帰途に着いたことでも明らかである。と断じてい
る。
沿道各駅は、この大行列のため、その雑踏はその極に達した。一部は壬生通りから鹿沼を通り、例幣使街道から日光に向かった。日光社参はかくも盛大に実施されたが、日常の日光詣も年々盛んになり、庶民層にいたるまで「日光を見なけりゃ、結構というなかれ」のことわざまで生まれた。
「日光道中」の諸街道の整備計画、如来寺御殿、体制を支える将軍の威光を示す「将軍杜参」の、大沢御殿、大桑宿の御三家本陣の配置などに、巧綴な舞台装置を見る思いがする。
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