街道に変貌
@古代の七道駅路時代
日本で最初に整備された幹線道路網で一古代律令時代)、奈良の都一後に平安京一から諸国の国府に至る官道。東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道で、平安時代の末期まで五百年以上にわたって機能した幹線ネットワークの原点である。
A江戸期の五街道時代。
中世の鎌倉時代には、「いざ鎌倉」に備えた鎌倉街道の整備もあるが、道路の全国的ネットワークの観点から見ると、過渡的な位置付けに過ぎず、ネツトワークがはっきり変わったのは、戦国の世をへて、徳川時代にはいってからである。江戸期の街道網は、幕府直轄の五街道及びその付属街道と、各藩の大名に実質的に委ねられていた脇街道からなっていた。五街道とは、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中、の五街道とこれに付属する街道である。これらの大小の街道が、一つのネツトワークを形成して江戸期の陸上交通を支えたのである。
B明治期の国道時代。
明治期に入って道路もまた、新しい明治政府に管理されることになったが、道路自体はすべて徳川幕府からそのまま引き継いだものであった。「馬車交通」も急速に発展し始めたが、政府は輸送政策の重点を「鉄道」においたので、馬車はその補助手段に転落し、西欧諸国のたどった車輪交通に耐える道路の整備を欠いたままの状態で、自動車時代を迎えることになった。このような道路のたちおくれは戦後の昭和二十年代の後半まで続き、道路は非近代的なままに放置された。
C昭和後期の高速道路時代。
自動車が道路交通の主役から、ひいては交通運輸の主役にまで成長するのは戦後のことである。在来の国道なども改良、整備がすす.められたものの、自動車交通の進展はその道路改良速度をはるかに上回るものであった。そして、昭和30年代の高速自動車道の計画化と建設開始以来、幹線道路の新たな時代に入いった。
このように、幹線道路網は四つの時代区分がされるが、路線の位置からすると街道と国道は実質的に殆ど等しいので、日本の幹線道路網は「古代路」「街道」「高速道路」の三つのネットワークがあったと考えることができる。(尚、武部氏は高速道路と古代路とは総延長、路線構成、路線位置の点において類似するという興味ある事実を示している。
ところで、「日本杉並木街道」は、江戸期五街道の中でも幕府の最重要幹線として整備されること二百五十年、亭々と葺えるその姿はまさに「世界に誇る杉並木街道」であった。し,かし、一転して明治国道の時代に入ると、鉄道優先の交通政策の下に、道路整備の立ち遅れたまま、自動車交通の苦難の時代に突入することになるのである。
このことは他の街道とて同様であるが、特に「日光杉並木街道」が特異な点は、明治以来、国際的にも。同まった観光地「日光」の強力な吸引力であり、鉄道も車も日光を目指した。その背景には昭和三〇年代後半からの急激なモータリゼーシヨンの進展があり、この空前の観光交通の流れは、昭和四十年ころから約十年間続いた。
この流れは依然として続いているものの、一応安定し得たのは東北自動車道から昭和五十一年に分岐した「日光-宇都宮道路」や、都市計画道路等の整備によって、「日光杉並木街道」の通過交通量を分散出来たからである。更に、現在一部着工した国道三百五十二号一例幣使街道)のバイパスは我々に新しい希望を与えるものである。
これら一連の動きが、日光地区における「高速道路時代」の幕開けと考えるならば、「日光杉並木街道」が車公害の呪縛からのがれるのもそう遠くはないであろう。
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